2024年12月22日06時00分 / 提供:マイナビニュース
●共感できない行為も…血の通った命を吹き込んだ
今期のドラマで“喜怒哀楽”の全てが詰まっていたドラマと言えば『わたしの宝物』(フジテレビ系、FODで配信中)だろう。
夫から冷たい仕打ちを受け孤独だった妻が、夫以外の男性と不倫の末に子どもを身ごもり、あろうことかその子どもを夫の子と偽り産み育てる「托卵」というセンセーショナルなテーマを扱った今作。毎回衝撃的な展開で視聴者を翻ろうさせながらも、決して「ありえない」とは思わせない“用意周到”なドラマに仕上がっていた――。
○運命に導かれるように“悪女”に
今作は「托卵」という受け入れ難いテーマを掲げながら、視聴者がそこに思いを寄せられる…ある意味で共感させ得るだけの、導入部の“用意周到”さが見事だった。特に不倫をしてしまった後の「なぜ子どもを産む決意をしてしまうのか?」と「なぜ離婚せず夫を偽り続けるのか?」を納得させるために用意された物語が実に巧みであった。
妻は夫の冷酷な対応により、美しい思い出のままだった幼なじみと、間もなく海外へ発つという期限付きもあいまって不倫関係に陥った。しかしその後、不倫相手が異国の地で死亡するというニュースが入ることで(※後に生存していることが判明)、身ごもってしまった子どもを産む決意をした。子どもを産み育てるためには自活する必要があったのだが、その環境を夫自らが促すこと(※子どもの面倒は見ないが金は出すという申し出)によって、主人公は自然と「托卵」という手段を選ばずにはいられない。こうして、運命に導かれるように“悪女”になっていく道筋が整っていった。
この「托卵」への過程は、主人公がただ自分にわがままなだけの悪女に仕立ててもよかっただろう。しかし、用意周到な導入部があったからこそ、主人公が図らずして悪女になった…「托卵」に共感を生んだ。それにより、今作が「托卵」というテーマを用いたトリッキーな不倫ドラマとしてでなく、視聴者に“考えさせる”余地を残すリアリティーを生むことにも成功したのだ。
○“変化”を表現…田中圭の魅力が爆発
導入部の用意周到に見事に“乗った”役者陣の好演も忘れてはならない。
主人公の美羽を演じた松本若菜は、「托卵」というどこを切り取っても共感に値しないキャラクターに血の通った命を吹き込み、連続ドラマの主人公としての華だけでなく、最後まで見届けたいと思わせるたくましさを表現してみせた。
そんな主人公をも上回る魅力を爆発させていたのが、夫・宏樹を演じた田中圭だろう。宏樹は特に難しい役どころだったに違いない。なぜなら、序盤と中盤以降で全く異なる人物と思えるほどに、“変化”を表現しなければならなかったからだ。
序盤はというと、妻の外出着にも口を出し、妊活の申し出にも“暇だから子どもが欲しいんだろう”と蔑むほど、酷過ぎる夫だった。しかし子どもが生まれた瞬間に父性が目覚め、序盤の姿と見違えるほどに温かみのある人物へ自然と変化し、最終的には彼の幸せを望まずにいられないキャラクターへと成長していった。
序盤の行為は、どんなに改心したとしても“取り戻せない”と思っていた視聴者も多かっただろう。しかし後半では正反対の感情を芽生えさせてしまうほど、田中圭の魅力が爆発していたのだ。それほどに、このドラマにおける宏樹という存在は圧倒的であった。
●『昼顔』『あなそれ』の“結末”と比較して見えるもの
今作の意外ともいえる結末については、系譜と言っていい過去2作の『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』と『あなたがしてくれなくても』の“結末”を振り返ったとき、あの形こそが必然とも思える準備が整っていた。
2014年放送の『昼顔』は、既婚同士でありながら惹かれ合い不倫に陥ってしまった主人公だが、最終回では二度と会わないという誓約書を交わすこととなり、一人孤独に生きていくラストを迎えた。続く映画版では、二度と会わないという約束を破ってしまったことで、不倫相手が故意の事故により死亡してしまうバッドエンディングに。これは、不倫という過ちを犯した者にはその報いが必ずくる、決して幸せにはなれない…言い換えれば、そうしなければ世間も許してはくれまいという、世相を反映したような“結末”だったと言えよう。
一方、昨年放送された『あなたがしてくれなくても』は、長年のセックスレスからプラトニックな不倫関係に陥り、やがて夫と離婚し一人で生きていくことを決める主人公だったのだが、離婚した元夫と距離を置いたことにより本来の思いを取り戻し復縁するという、いわゆる“元サヤ”決着だった。これは不倫は決して許されない…幸せにはなれないという前作の“結末”から次なるステージを見せたもので、どんな罪を犯したとしても、自らの幸せの追求は避けられないという、『昼顔』を経たからこそ生まれた意外性のある“結末”であった。
そして今作はというと、『わたしの宝物』というタイトルになぞらえ、自分にとっての“宝物”は何か?を導き出すことで、それぞれの“結末”が描かれた。美羽と宏樹が、子どもを含めたこの家族関係こそが“宝物”であるとお互いが確認し合い、再び夫婦生活を取り戻す“元サヤ”決着。これは、一見『あなたがしてくれなくても』と同じ結末なのだが、今作では、夫にとって“血のつながらない子ども”が介していながらも“元サヤ”に収まることができる…それが子どもも含めた3人の“幸せ(=宝物)”であるという、新たな解釈を加えたものと言えよう。
この三部作の“結末”を比較することで、よりそれぞれの作品の深みも感じられるのではないだろうか。
○冬月の“自由さ”がもたらした説得力
ここで忘れてはならないのは、“元サヤ”決着をより鮮明にさせてくれた“本当の父”である冬月(深澤辰哉)の存在だ。
“元サヤ”に収まるために必要だったのは、美羽と宏樹が持っていた“明確なもの”…今の家族と暮らしたい…というその思いだった。しかし冬月に至ってはその“明確なもの”が最後の最後まで見えず、“本当の父”である冬月こそが美羽と幸せになる権利があるのではとも思わせるところだった。
ところが、最終回でようやく冬月の“明確なもの”が見えた。それは彼の純粋過ぎる“自由さ”だ。誰にも寄せ付けない信念とも言い換えられるが、仕事にも恋愛にも生き様にも、とてつもない“自由さ”があり、だからこそ今回の結末である、“実の父”ではあるが“本当の父”ではないという考えから身を引き見守るという選択に対し、大いに説得力をもたらしたのだ。
あの冬月の身勝手ではない純粋な“自由さ”がなければ、視聴者は彼に父としての責任があるのではないかと糾弾しただろう。そしてそのキャラクターが実に現代的であり、今だからこそより理解できる存在になったのではないだろうか。
とはいえ、今作の“結末”に納得いかない視聴者も多くいるだろう。だが、全10話にわたって仕掛けられた衝撃の数々とともに、喜怒哀楽を共有することで、見たくない…けれど見たいと思わせたのは…エンタテインメントでありながら、時に自分に置き換え“考えさせられる”、その2つが両立していたからではないか。それほどに今作は、視聴者を巻き込む力強さがあったのだ。