2024年11月23日18時00分 / 提供:マイナビニュース
●密着ディレクターは息子のアシスタントだったことも
フジテレビのドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』(毎週日曜14:00~ ※関東ローカル)で、17日・24日・12月1日の3週にわたり放送される『炎の中で死んだ父を僕は知らない』。自分の人生を翻ろうし続けた父の足跡をたどるテレビディレクター・落合陽介ギフレさんの“旅”を追った作品だ。
取材・制作したのは、陽介ギフレさんと同じ制作会社に所属する後輩・宗田祐佳ディレクター(ユーコム)。旅に同行して、陽介ギフレさんの複雑な感情が解かれていく様子や、亡き父の愛される人柄が伝わってきたという。『ザ・ノンフィクション』初の3週連続企画で、24日(通常回と異なり13:40~)の第2話放送前に、話を聞いた――。
○母は心を病み孤独死、弟は20歳で命を絶つ
2024年4月、画家・落合皎児(こうじ)さんが火事で亡くなった。長野の実家に駆けつけた息子の陽介ギフレさん(44)に遺されたのは、父が描いた1,000点もの絵と約1,500万円の借金。かつて、ピカソやミロといった巨匠と並ぶ「スペインの現代作家150人」に選出された父だが、もし絵画を相続するなら、父の借金も全額相続することになる。父の絵を守る方法を探して、陽介ギフレさんは生前の父を知る人々を訪ね回る旅に出た。
幼い頃から両親は不仲で、中学校から実家を出た陽介ギフレさんは、父のことをよく知らない。その後、母は心を病み孤独死。弟は20歳で命を絶った。そんな家庭で育ち、ただ一人残された陽介ギフレさんは「家族4人の写真」さえ一度も見たことがなかったのだ。
なぜ父は家族をバラバラにしてしまったのか…いつしか息子の旅は、その答えを探す旅へと変わっていた……。
○テレビディレクターの仕事をしながら月半分長野へ
今回の企画が立ち上がったのは、陽介ギフレさんから。その真意を、宗田Dは「多額の借金があるけど、絵は残したい。そのためにどうしたらいいのか分からなくて、何とかするために自分を奮い立たせる意味で企画書を書いたのではないかなと思います」と想像する。
そのため、当初は陽介ギフレさんが自分で撮っていく“セルフドキュメンタリー”形式で制作することも考えたが、客観視するディレクターとして同じ会社の後輩である宗田Dを立て、陽介ギフレさんが取材対象者になる形になった。元々陽介ギフレさんは番組にすることを考えていなかったが、記録として残そうと様々な場所で撮影を行っていたことから、今回の番組ではその映像もふんだんに使用している。
父親が大量に残したメモや手紙を手がかりに取材を進めていったが、とても陽介ギフレさん一人で読める量ではないため、宗田Dが一緒に読み込むことも。「元々同じ番組でディレクターとADだった関係なので、今回の取材もディレクターとして追っているというより、ギフレさんが父を知る活動のアシスタントみたいな時期が結構あって、“これで正解なのだろうか…”と悩みながら取材していました」と打ち明ける。
陽介ギフレさんは本業のテレビディレクターの仕事をしながら、この半年間、月の半分は長野に足を運んでいたのだそう。「長野で編集作業もするし、自分の担当番組の打ち合わせもリモートでやっていました」ということからも、父の足跡をたどる旅に大きく力を注いでいたことがうかがえる。
●「家族はひどい目にあったけど、憎んではいない」
皎児さんは酒浸りで変わり者の性格から、幸せな家庭を築くにはほど遠く、帰国後に離婚。その存在に悩まされ続けた家族は心を病んだ。陽介ギフレさんはそんな父の絵について、「自分の家庭がめちゃくちゃになった象徴みたいなもの」「どんだけしんどい思いをしてきたか」と苦しい思いを打ち明ける一方で、「簡単に断ち切れない」「通過儀礼として“さよなら”を言いたい」と、その絵を何とか守ろうと奔走する。
この一見相反する感情を理解できなかった宗田Dが「そんなひどいことをされてきたお父さんにある感情は憎しみですよね?」と聞いたところ、返ってきた答えは「たしかに親父のせいで家族はひどい目にあったけど、憎んではいない。親父のことは憧れもあるけど、人と人として付き合うのが難しい人だっただけ。だから“愛すべきクソ親父”なんだ」というもの。それを聞いても共感することはできなかったが、陽介ギフレさんの旅を追っていき、父親の人柄が徐々に分かっていく中で、陽介ギフレさんの複雑な感情が解かれていくのが手に取るように分かった。
「ギフレさん自身が、お父さんの知人などに会うと“親父ってこういうところがあって、カッコよかったんですよ”って自慢話したり、“こういうところに憧れてたんだな”と言うことがあったんです」という姿を見て、まるで生前にできなかった父親との距離を埋める作業をしているように感じた宗田D。
今回の取材の最後に、陽介ギフレさんに父親への感情の変化を聞くと、「元々は嫌悪感も愛情も憧れも、いろんなものがゴチャっとなった複雑な感情を抱えていたのが、この半年の旅を終えて“好き”という感情だけが残った」と答えたのだそう。
半年前に父親が亡くなった際は、“知らない父が死んだ”感覚で「寂しい」という感情が湧かなかったが、そこから足跡をたどる旅を通して“よく知る父の死”に変わり、今は「すごく寂しい」という感情を抱いているそうだ。改めて、“親子”という関係が決して単純なものではないことが伝わってくる。
○相手の懐に躊躇なく入っていくコミュニケーション術
今回の取材が成立したのは、初対面の人に対しても、相手の懐に躊躇なく入っていく陽介ギフレさんのキャラクターも大きい。「こっちからすると“大丈夫か!?”と心配になるのですが、あれが彼なりの、自分の心をオープンにするコミュニケーションの仕方なんだと言っているんです」という。
特に、最後の最後まで父の面倒を見てくれた居酒屋の主人・譲二さんとは、一晩酒を酌み交わしただけで驚異的な意気投合っぷり。
「事前にお父さんの日記を読んでいたので、熱い感じで対応してくれるかと思ったら、最初にお会いした時は結構他人行儀な感じで、ギフレさんは“ちょっと構えてたよね”とショックを受けていたんです。そこで、一緒にお酒を飲んだらいろんな鎧が取れて、譲二さんもお父さんと付き合っていた頃の素の感じになっているようでした。あの時の2人はすごくうれしそうにしていましたね。最後は普通に歩けないくらいベロベロになってましたから(笑)」
●アポイントを断られたのは0人
宗田Dが今回の取材を通して一番印象に残ったのは、皎児さんに関わる人々が「どの方もめちゃくちゃいい人たち」だったこと。
近所に迷惑をかけるトラブルも起こしており、“関わってはいけない危険人物”と受け止められかねない状況だっただけに、「なんであんなに変わったお父さんの周りにこんないい人たちが集まっているんだろうとすごく不思議に思いました」というが、「ギフレさんが活動を進める中で、まるで『ドラクエ』のように、いろんな人たちが現れて助けてくれるんです」という現象を目の当たりにした。
その要因は、「お父さんの絵の力かもしれないし、お父さんの人柄を継いだギフレさんの力かもしれない。それは長野だけでなく、スペインでのロケでも同じでした」とのことで、今回取材のアポイントを断られたのは、なんと0人。中には皎児さんとケンカ別れしたままだった人も快く応じてくれたという。
その結果、60人以上を取材してカメラを回すことに。「放送に乗っているのは限られた人たちで大変心苦しいのですが、本当に皆さんがそれぞれ温かいお話を聞かせてくれました。その内容がみんな違うのにも驚きましたし、自分が死んだ時に60人も語ってくれるのだろうかと思いますよね」と、愛される人柄だったことを想像した。