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逸見政孝さん逝去30年――日テレ小杉善信氏の回顧<後編> がん告白会見の舞台裏と忘れられない最期の目

2023年12月25日06時00分 / 提供:マイナビニュース

●記者会見前に目撃した驚きの行動
1993年12月25日、人気絶頂の司会者が、48歳の若さでこの世を去った。フジテレビアナウンサーからフリーになり、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ)など、各局で高視聴率番組を抱えていた逸見政孝さん。異例の“がん告白会見”の衝撃が冷めやらぬ中でのクリスマスの訃報に、日本中が悲しみに暮れた。

『SHOW by ショーバイ!!』をはじめ、『夜も一生けんめい。』『いつみても波瀾万丈』と、逸見さんが出演していた日本テレビの全レギュラー番組のプロデューサーだったのが、後に日テレ社長も務めた小杉善信氏。「一生であんなに泣いたことがない」という別れから30年の節目で、思い出を振り返ってもらった。

後編では、あの“がん告白会見”の舞台裏から、病室での最後のやり取りを回顧。そして逸見さんが去って30年が経った今、試練を迎えているテレビへの提言とは――。

○異例の会見は“宣戦布告”だった

――93年9月6日、逸見さんが、がん告白会見をされました。小杉さんはどのタイミングで、逸見さんから知らされたのですか?

その年の最初に1回休んだときに「十二指腸潰瘍」だと言ってたんですけど、あのときには、がんだと聞いてました。でも、全部切除したということだったので、その後は本当に普段通りにやってましたね。でも、8月のカズ(三浦知良)とりさちゃん(三浦りさ子)の結婚式が終わってしばらくしてから、東京女子医大で再発が判明した。それで逸見さんから、ちょっとステージが進んで、手術しなきゃいけないという話を聞きました。

大変ショックだったんですが、そこで僕がやらなければいけなかったのは、逸見さんがいない間のMCをどうするか。『SHOW by ショーバイ!!』は逸見さんが帰ってくるまで、古舘(伊知郎)さんとか山城(新伍)さんとかいろんな方にやってもらうことにして、留守を守る。『夜も一生けんめい。』は迷わず歌番組が得意な徳さん(徳光和夫)にお願いしました。マネージャーにも外に出てもらって、2人だけになって「これは絶対秘密なんだけど、逸見さんがしばらく入院するんで、司会を受けてほしい」と頼みました。『いつみても波瀾万丈』は留さん(福留功男)にお願いして。

それぞれに「3カ月したら戻ると思うから、年内やってほしい」とお願いしたら、スケジュールを全部調整してくれました。皆さん、逸見さんのことをすごく良く思っていたので、「逸見ちゃんのために協力しよう」と言ってくれて、これで番組は何とか辛抱できると思い、9月6日を迎えました。

――がん告白で記者会見をするというのは、今でも相当異例なことだと思います。それでも逸見さんが会見をやるというのを聞いて、どのように受け止めましたか?

でも、やることの意味は分かりましたよね。自分の口で語ることで、説明責任をきっちり果たしたい。それと、「絶対に戻ってくるんだ」という“宣戦布告”だったと思うんです。あそこで「戻ってくるんだ」という気持ちを伝えることで有言実行にする思いを、ずっと持ち続けていましたから。
○控室に戻って第一声「数字(視聴率)とってるね」

――あの記者会見は、麹町にあった旧日テレ社屋で行われましたが、なぜ日テレが会場になったのですか?

やはりレギュラーを3本やってて、日本テレビの顔みたいになっていましたからね。他局でもレギュラーはありましたけど、どこも1本ずつくらいだったと思います。ただ、会場はうちでしたが、全局で生中継されましたから。

――各局のワイドショーが生中継できるよう15時にスタートしました。

あの9月6日は、今でも忘れられないことがいっぱいあります。逸見さんって「普通」の人で、楽屋とかなくて、Gスタ(ジオ)の横にあった『SHOW by ショーバイ!!』のスタッフルームに来るんです。やってくるとニコッと会釈しながらソファーに座ってテレビを見て、ちょっとメイクをやりに行くというのが決まりで、あの日もいつもと同じように入ってきましたね。お昼の13時頃に来て、出前のざるそばを頼んだんですよ。「一緒に頼む人いる?」とか言いながら、何人か手を挙げて出前が届くと、逸見さんが払ってくれたのですが、あの人は必ずピン札なんです。家を出るときに財布の中の向きも全部そろえて、それで払ってくれて。

それで、15時から記者会見を予定していたのですが、実はその年の春の番組改編で、日本テレビだけ15時より前にワイドショーをやってたんです。だから、僕は14時54分に会見場に入ってもらって、うちだけ先に映像を出そうと思いました。逸見さんはフェアな人なので、こっそりやろうと。

――事前に言うと「ダメ」と言われるのが分かるから。

そしたらもうびっくりしたのは、南本館2階の大会議室で記者会見をやるんですけど、会見が始まる前に、逸見さんがGスタの控室から会見場まで実際に歩いて、どれくらいかかるか時間を計ってるんです。もっとすごいのは、戻ってきて電話してるんです。どこにかけてるかと思ったら117(時報)で、それを聞いて時計を秒まで合わせてる。そこから逆算して、14時58分何秒かのところで控室を出て行ったんですね。もうここまで生真面目でフェアな人なのかと思って、びっくりしました。

――完全に15時に生放送がスタートするという意識で臨んでいたんですね。そしてあの記者会見が始まって、どのような思いで見ていたのですか?

これは「逸見ショー」だなと思いましたね。こんなこと言ったら不謹慎ですが、生き生きとやってる感じがしたんです。

――まるで生放送の番組の司会のように。

はい。会見が終わって控室に戻ってきたときの最初の一言にびっくりしたんですが、「小杉ちゃん、今日数字(視聴率)とってるね」って。この人は、もう根っからのテレビマンだと思いましたね。

――毎分視聴率のグラフを思い描きながら、会見をされていたんですかね。

そうなっていたんでしょうね。だから、「私が今、侵されている病気の名前。病名は、がんです」と言ったところは、ドーンと上がったと本人は思ってたんじゃないかと。しゃべりながら俯瞰(ふかん)で見ているもう一人の自分がいたんでしょうね。

でも、スタッフルームにニコニコ笑って入ってくる姿を、その後二度と見ることはできませんでした。

●病室で最後に握った手が熱かった
――入院後はお見舞いによく行かれたのですか?

はい。12月にはカズとりさちゃん(三浦知良・りさ子夫妻)も連れて行って、そのときカズが日本代表の11番のユニフォームを持ってきてくれたんです。「逸見さんに僕のパワーを送るから」と言って、それは亡くなるまでずっと病室に飾ってありましたね。

――そして、クリスマスにその時を迎えてしまいます。

24日のイブに「そろそろ危ないぞ」という知らせが(逸見さんの所属する三木プロダクションの)三木(治)社長から来て、夜中の12時くらいに駆けつけました。逸見さんは意識がもうろうとし始めていたんですが、握った手が熱かったんです。もうあの声を聞くことはできませんでしたが、“まだやりたいことがいっぱいあるんだ”と必死に訴えてきているようで、あの目は今でも忘れられない。

それからずっと病院にいて、1回病室を出て、その間に亡くなられて。また病室に入って、奥さんや(娘の)愛ちゃんから、うわ言で「正解は3番」と言っていたという話を聞きました。

――亡くなった後は、追悼番組が放送されました。

生放送でやって、もう一生であんなに泣いたことがないというくらい、スタッフみんなが抱き合って号泣しました。それくらい、ものすごく大きな存在だったんですよね。

○もし逸見さんが生き続けていたら…

――逸見さんが亡くなってから、ご家族と交流はあるのですか?

そうですね。愛ちゃんとは今でも年に1回くらい食事をして、帰りは逸見さんの夢だった世田谷の自宅に送っていくんです。その途中、僕が話しながら泣いちゃって、それを見て愛ちゃんも泣くというのが、いつもですね。

――逸見さんは亡くなりましたが、その魂というのは小杉さんに引き継がれていたのでしょうか。

僕はやっぱり番組を愛して、しかもフェアで、でもどこかで先ほど言った記者会見の後の「これ数字とってるね」というような冷めた目線を持っている部分は、引き継いだ気がしていますね。

人生にifというのはありませんが、もし逸見さんが生きてらっしゃったら、こと自分に関しては、バラエティからドラマに異動(※)することはなかったと思います。逸見さんと3本レギュラーをやって相当ハモっていたので、人事異動で自分が動くことはなかったと思うんです。

(※)…小杉氏は逸見さんの逝去後、94年にドラマ班に異動し、チーフプロデューサーとして『家なき子』『金田一少年の事件簿』『星の金貨』『恋も2度目なら』を手がけた。

――その後、編成や営業、関連会社にも行かれ、様々な業務を経験されたことで社長まで務められることになったのは、逸見さんがどこかで背中を押してくれていたのかもしれませんね。

●幻の『SHOW by ショーバイ!!』×『なるほど!ザ・ワールド』コラボ企画

――逸見さんが去って30年が経ったテレビですが、視聴率も放送収入も下がり、大きな試練を迎えています。

視聴率一辺倒で広告収入だけでやっていける時代じゃないので、多角的なマネタイズが重要になってきますし、動画プラットフォームと連携して相互送客することも、できるだけ権利の上流にいてIP(知的財産)を使ったビジネスも大事ですが、すべてに特効薬はないと思うんです。だから、テレビだけで完結するいろんな企画を日々やることで、漢方薬のようにいつの間にか効いてくるような取り組みができないかと思いますね。

――具体的に、どんな展開が考えられるでしょうか。

やっぱり、“テレビ自体がテレビを遊ぶ”ということをやったほうがいい。僕も昔からちょっとずつやってきたんですけど、『横浜心中』(94年)というドラマをやったときに、同じクールにTBSで『スウィート・ホーム』というのがあったんです。そこで、貴島誠一郎(プロデューサー)さんに声をかけて、野際陽子さんに『スウィート・ホーム』の役柄のままうちのドラマにワンカット出てもらったんですよ。日テレとTBSのコラボということで記者の方に声をかけたら、結構来てくれて盛り上がったんです。

――それは取材に行きますよ!

実はその前に、『SHOW by ショーバイ!!』と『なるほど!ザ・ワールド』(フジテレビ)がコラボする『なるほど!ザ・SHOW by ショーバイ!!』っていうのを企画したことがあったんです。それぞれの番組の解答者にクイズを出して、勝ったほうが相手の番組に出られるっていう企画で、当時は『なるほど!ザ・ワールド』のほうが老舗の王者で、『SHOW by ショーバイ!!』はまだまだ成長途中でしたから、こっちとしてはさらなる人気番組のきっかけになると思って日テレはみんなOKだったんです。

2時間番組を作って前編をフジテレビ火曜21時で放送する、後編を翌日の日本テレビの水曜20時で放送する。PRはお互いガンガンやる。考えただけでもワクワクします。それをまず最初に愛川欽也さん(『なるほど!ザ・ワールド』MC)を口説きに行ったら、「面白いね。逸見ちゃんか」と乗ってくれた。その次に大先輩の王東順(プロデューサー)さんに当たったら「詳細をつめてみようか」と言ってくれたんです。

――おお!

もう僕らも色めき立って、かなり画期的なことになるぞ!と思ったんですけど、『なるほど!ザ・ワールド』は一社提供番組で、競合になるスポンサーが『SHOW by ショーバイ!!』の提供社にあり、営業の問題があって結局できなかったんです。

でも、そうやって“テレビがテレビを遊ぶ”と面白いじゃないですか。遊びも真剣にやると本気になりますからね。だから、特効薬じゃないけど漢方薬みたいに、時には劇薬も使ってテレビの中で、「えっ、こんなことやるの!?」というのを作っていけば、まだまだテレビの力は捨てたもんじゃないという気がします。

――今年、テレビ70年で日テレとNHKがそれこそ番組の相乗りなどコラボしたのは、見ていてワクワクしました。

そうですよね。同じ局でも昔『火曜サスペンス劇場』で、違う作品の刑事でコラボができないかと思ったんですけど、制作会社が違うのでできなくて、同じアニメ制作会社で「ルパンとコナンってできないの?」って言ってみたら、『ルパン三世VS名探偵コナン』(09年・13年)というのができたんですよ。ただ、言うは易しだけど担当の中谷(敏夫)プロデューサーは相当大変だったようです(笑)。やっぱり、IPのすごいコンテンツ同士が合体すると実現させるには調整が難しいですし、さらに作品と成功させなければいけないですからね。

――改めまして、逸見さんの貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。今回の取材を受けるのを機に昔の資料を見直したりして、逸見さんとの思い出をはじめ、昔の“棚卸し”ができたので、僕もいい機会になりました。

●小杉善信1954年生まれ、富山県出身。一橋大学卒業後、76年に日本テレビ放送網入社。制作局に配属され、『それは秘密です!!』『ほんものは誰だ』など公開バラエティ班でAD、『木曜スペシャル』の『世界びっくり大賞』などのディレクターを担当。その後、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『夜も一生けんめい。』『いつみても波瀾万丈』『マジカル頭脳パワー!!』などのプロデューサーを務め、『24時間テレビ15』(92年)では「サライ」「間寛平マラソン」を企画。94年にドラマ班に異動し、チーフプロデューサーとして『家なき子』『金田一少年の事件簿』『星の金貨』『恋も2度目なら』を手がける。編成部長、営業局長、編成局長、日テレアックスオン社長、取締役編成局長、常務、専務、副社長を経て、19年に社長、21年に副会長就任。22年から顧問、日テレアックスオン エグゼクティブアドバイザーを務める。

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