2023年12月24日06時00分 / 提供:マイナビニュース
●他の司会者が霞む“逸見一強”だった
1993年12月25日、人気絶頂の司会者が、48歳の若さでこの世を去った。フジテレビアナウンサーからフリーになり、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ)など、各局で高視聴率番組を抱えていた逸見政孝さん。異例の“がん告白会見”の衝撃が冷めやらぬ中でのクリスマスの訃報に、日本中が悲しみに暮れた。
『SHOW by ショーバイ!!』をはじめ、『夜も一生けんめい。』『いつみても波瀾万丈』と、逸見さんが出演していた日本テレビの全レギュラー番組のプロデューサーだったのが、後に日テレ社長も務めた小杉善信氏。「一生であんなに泣いたことがない」という別れから30年の節目で、思い出を振り返ってもらった。
前編では、逸見さんとの出会いから『SHOW by ショーバイ!!』でのエピソードなどを回顧。真面目で几帳面ながらユーモアも兼ね備えた人柄で一気にスターの道を駆け上がり、当時の司会者では“逸見一強”の印象を抱いていたという――。
○バラエティ未知数も“航空母艦の艦長”に
――まずは逸見さんとの最初の出会いから伺わせてください。
逸見さんがフジテレビを辞めるというのが内々に決まったときに、(フジ退社後に所属する)三木プロダクションの三木(治)社長が、うちで『11PM』や『木曜スペシャル』をやっていた当時チーフプロデューサーの高橋進に昔恩義があったというので、元フジテレビのプロデューサーと来社されて、僕も立ち会ったんです。そこで、逸見さんが(88年)3月いっぱいで辞めると言ってるので、フリーになった最初は日本テレビの番組にしたいというお話を持ってこられました。で、改めてご本人と話そうということになって、3月に辞められて、初めてお会いしたのは初夏だったと思います。
――本人とお会いしたのはフジテレビを辞められた後なんですね。
逸見さんはそのあたりの仁義がしっかりしてるので、辞めて少し時間を置いてから会いましょうとなったのです。それで会ったときに、逸見さんはずっと報道畑でやってきたけれど、クイズ番組がやりたかったんだとおっしゃって。その頃、僕らも『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』という企画でクイズ番組をやろうと思っていたので、そこで合致したんですよ。
――日テレのプロジェクトとしてクイズ番組の企画開発を行っていた時期ですね。
当時の日本テレビの状況を言うと、代表的なクイズ番組がなかったんです。フジテレビは『なるほど! ザ・ワールド』、TBSは『世界まるごとHOWマッチ』(MBS制作)が大ヒットしていて、そういう番組をうちもどうしても作りたかった。それは、期末期首に母体にして、番組対抗の特番が作れるから。うちも番組対抗はやってたんですけど、言わば“無国籍”のような形で、全然視聴率がとれていなかったんです。自分の思い描いていた絵は、タイムテーブルが連合艦隊だとしたときに『SHOW by ショーバイ!!』を航空母艦にしようと。その艦長に逸見さんは適任だと思ったんです。
当時の逸見さんは、真っ白なキャンパスみたいな方だったんです。報道キャスターの色はあったけどバラエティは未知数(※)で、僕のイメージと逸見さんの方向性が一致したというところがあったと思います。
(※)…当時、フジテレビで夕方のニュース番組『スーパータイム』のキャスターを務めていた。
――『SHOW by ショーバイ!!』がスタートするのが88年10月ですから、その年の初夏に初めて会うというのは、なかなかタイトなスケジュールですよね。
そうですよね(笑)。でも、あの当時の日本テレビはゴールデンの数字が悪かったから、どんどんスクラップ・アンド・ビルドしていて、そのスピードが速かったんだと思います。
○台本の全ての自分の発言に「逸見」スタンプ
――そうして『SHOW by ショーバイ!!』が立ち上がりました。
スタートまでに台本を渡して、何回か顔を合わせて打ち合わせするんですけど、そこでびっくりしたのは、逸見さんは台本の自分のしゃべる全ての部分に「逸見」というスタンプを押してるんですよ。しかも向きが一切曲がってない。あんな人は初めて見ましたね。ドラマのセリフじゃないんだから、そこまで厳密じゃなくてもいいはずなんだけど、「ここは僕がしゃべるところだ!」と、ものすごく自分の役割を意識されてたんだと思います。僕と同じB型で水瓶座なんですけど、すごく生真面目で、几帳面で、全然性格が違うなと思いました(笑)。僕はまず全体を作れば、細かいところはそんなに気にしないんですけど、逸見さんは細部にまでこだわる人だと思って、それがすごく印象的でしたね。
真面目な面でもう一つ感心していたのは、逸見さんは番組を途中で投げたことがない。長くやってると、VTRが悪かったり、ゲストが悪かったりして、途中で「今日の収録うまくいってないな」っていうのが分かって、「今日の出来は俺関係ないよ」って態度に出ちゃうMCもいるんですよ。でも逸見さんは1回もない。どんなにキツい収録でも投げない。これは(明石家)さんまさんも一緒で、逸見さんとさんまさんは、どんなにひどいネタが出てきても、最後まで自分が何とかしようと貪欲なんです。
――それはスタッフの士気も上がりますよね。
やっぱり、「この人のために頑張ろう」と思いますよね。
――生真面目で几帳面でありながら、バラエティのアドリブにも抜群の対応力でした。
逸見さんは決め事に関してはきっちり任務遂行してくれるんですけど、その生真面目さと同時に、関西人ならではのユーモアに加えて、何かを言った後にニコっと笑う姿とか茶目っ気があるんですよ。それで天性の好感度を持っていて、意外と下ネタも嫌いじゃないんだけど、全く下品にならない。だから、生真面目さとユーモア、茶目っ気、これを兼ね備えた司会者としてナンバーワンだったと思いますね。『SHOW by ショーバイ!!』の途中ぐらいから一気に花が開いてスターの道を駆け上がって、他の司会者が霞む“逸見一強”のような感じが、個人的にはしていました。
――制作側として、その魅力を存分に生かすのにどんなことをされていたのですか?
僕なんかがやっていたのは、逸見さんに何かしら刺激を与えると、こっちが想像するリアクションから違うところに行っちゃって、それが面白いんですよ。“逸見さん、これどうするかな…?”っていうのを30分番組だと2つくらい、1時間番組だと4つくらいまぶしておくと、『SHOW by ショーバイ!!』で思わず正解を言っちゃうとか(笑)。クイズの司会者が正解を言っちゃって、しかもそれを解答者からのツッコミで気づくなんて見たことないですよね。だから逸見さんはもちろんしゃべってるときが魅力的なんですけど、しゃべってないときもすごく魅力的だったんです。徳さん(徳光和夫)がよく「テレビは人間性を映す鏡だ」とよく言ってるんですけど、逸見さんはまさしくそれで視聴者に受け入れられた代表じゃないですかね。
それで言うと、「普通」でいられることも人気の要因だと思います。「昨日あの人とメシ食ってさ~」とか芸能界のいろんな話を得意がってすることもないし、時間に遅れることは1回もない。こちらがハイヤーを手配して車でいらっしゃるんですけど、道が混んでると途中で降りて、麹町(日本テレビ)まで地下鉄で来てましたから。あんな人気者なのに「よく電車乗れましたね」って言ったら、「当たり前ですよ。僕はフジテレビまで何十年も電車で通ってたんだから、何の問題もないですよ」って(笑)。そういう人間的な魅力、タレントとしての魅力というのが、逸見政孝という一つの素晴らしい個性を作っていた気がしますね。
●三浦知良の結婚式の司会を「高田純次とやりたい」
――生前親交のあった古舘伊知郎さんは、自身のYouTubeで「一言で言うと、すっごい気が強い人」とも表現していました。
ものすごく意志が強い方でしたね。ああ見えて強情なところがあるんです。それが垣間見えたのは、『SHOW by ショーバイ!!』のパイロット版(試作版)を作ったときで、(解答者の)山城新伍さんが「ちょっとお手並み拝見」とばかりに、逸見さんにビーンボールギリギリを放ってくるですよ。それに、逸見さんが結構立ち向かっていったんですよね。あれを見て、結構気が強い人だなと思ったんですけど、あの食い下がっていく姿勢をものすごくプラスに捉えて、それがゆくゆくは逸見vs山城っていう『SHOW by ショーバイ!!』がヒットする一因にもなったんです。
――山城新伍さんとの対立軸は面白かったです。
当時の山城さんと言えば、『アイ・アイゲーム』(フジテレビ)で「チョメチョメ」とか言葉遊びを使って一世を風靡して、もうクイズ番組の司会者としては百戦錬磨ですよ。あれは1回目の放送だったかな、会話で霧にまつわる話の時「視界不良……司会不良!」と言ったり、「こっち(解答者席)と交代する?」って逸見さんにかましてくるんです。それに対して、逸見さんは弁慶に立ち向かう牛若丸のように切り返していく。そんなやり取りをしていくうちに、山城さんは逸見さんの持ってる天賦の才能を途中から完全に認めて、その対立軸を、番組を面白くする武器に使い出したんですよね。
――『SHOW by ショーバイ!!』以外にも、日テレでは『夜も一生けんめい。』『いつみても波瀾万丈』と3本のレギュラーを抱えていました。
『夜も一生けんめい。』は、タレントが持ち歌じゃなく、人の歌を歌うという番組で、逸見さんがいたからできた番組ですよね。お天道様の下を堂々と歩く昼間の世界代表の逸見さんと、夜の世界を泳いできた美川憲一さん、そこに田中律子、杉本彩という女性のアシスタントがいて、3代目が設楽りさ子ちゃんだったんだけど、彼女の最後の日にカズ(夫になる三浦知良)が来てトシちゃん(田原俊彦)の歌を歌ってくれて、とてもメモリアルな回になったんですよ。それで、カズとりさちゃん結婚式の司会を、逸見さんがやることになったんです。あれが、テレビ番組以外のイベントでいうと最後の司会だったと思います。
――93年8月ですね。
僕はあの結婚式のプロデューサーをやったんですけど、逸見さんに「司会のアシスタント、誰とやりたいか好きな人言ってください。僕が仕込んできますんで」って言ったんです。あの式には、主賓で渡邉恒雄氏(当時・読売新聞社長)と、うちからは氏家齊一郎さん(当時・日本テレビ社長)の両巨頭がいて、逸見さんが司会で断る人はそうはいないから、女優さんでも仕込めると思ってたんだけど、逸見さんは「高田純次がいい」って言うんですよ。「えー! 高田純次~!?」って驚いて(笑)。もう逸見さんは純ちゃんが大好きで、一度番組関係なく組んでやりたかったと言うんで(※)、ものすごい楽しみにしてましたね。純ちゃんもあんな感じですから、まあ面白い式になりましたよ(笑)
(※)…『SHOW by ショーバイ!!』に準レギュラー解答者として出演していた。
○フジテレビの良さを日テレに持ってきてくれた
――『SHOW by ショーバイ!!』から日本テレビにはどんどん人気番組が生まれ、94年についにフジテレビを抜いて視聴率三冠王となります。
三冠王になるのは逸見さんが亡くなった1年後なんですが、日本テレビにとって恩人だと思っています。逸見さんがフジテレビの持っていた明るさを日本テレビに持ってきてくれて、雰囲気を変えてくれた感じがあるんですよ。これはみんな言ってました。当時の日本テレビは、すごく革命的な番組もやってたんだけど、チョモランマ(※)とか単発が多かった。そこに逸見さんがレギュラーで番組やってくれて、フジテレビの良さを自分ごと持ってきてくれたというイメージがありましたね。
(※)…世界最高峰のチョモランマ頂上から、世界初のテレビ生中継に成功した『チョモランマがそこにある』
――番組対抗の特番があると、日テレのいろんな番組の出演者やスタッフの皆さんが参加するので、そこから逸見さんの持っていた空気感が伝播していくというのがあったのでしょうか。
そうですね。そんな感じがありました。
●小杉善信1954年生まれ、富山県出身。一橋大学卒業後、76年に日本テレビ放送網入社。制作局に配属され、『それは秘密です!!』『ほんものは誰だ』など公開バラエティ班でAD、『木曜スペシャル』の『世界びっくり大賞』などのディレクターを担当。その後、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『夜も一生けんめい。』『いつみても波瀾万丈』『マジカル頭脳パワー!!』などのプロデューサーを務め、『24時間テレビ15』(92年)では「サライ」「間寛平マラソン」を企画。94年にドラマ班に異動し、チーフプロデューサーとして『家なき子』『金田一少年の事件簿』『星の金貨』『恋も2度目なら』を手がける。その後、編成部長、営業局長、編成局長、日テレアックスオン社長、取締役編成局長、常務、専務、副社長を経て、19年に社長、21年に副会長就任。22年から顧問、日テレアックスオン エグゼクティブアドバイザーを務める。