2023年08月18日18時00分 / 提供:マイナビニュース
●がんがんじい誕生秘話
『仮面ライダー』の50年以上に及ぶ長い歴史を立像・アイテム展示や映像でふりかえるイベント『生誕50周年記念 THE仮面ライダー展』が、2023年9月3日まで大阪・ひらかたパーク(大阪府枚方市)で開催されている。これまで名古屋、福岡、札幌、東京、静岡と各地を回ってきた本イベントは、昭和・平成・令和と3つの時代にまたがって、子どもから大人まで幅広い世代の人々から愛されたヒーロー「仮面ライダー」各作品を時代順にたどり、来場者ひとりひとりの「思い出に残る仮面ライダー」との再会を果たすことのできるイベントとして、好評を博している。
『THE仮面ライダー展』大阪会場開催の前日に行われた内覧会には、芸歴46年の落語家・桂塩鯛の姿もあった。塩鯛はかつて「桂都丸」の名で活動していたころ、1979~80年放送の『仮面ライダー(新)』に、ズッコケヒーロー「がんがんじい」役でレギュラー出演しており、今回『THE仮面ライダー展』にがんがんじいの立像が展示されているという話を聞いて、駆けつけたのだという。
スカイライダーと共に悪の組織ネオショッカーと戦おうと意気込むが、もともと普通の若者が手製の鎧を身に着けただけのがんがんじいでは、怪人はもちろん戦闘員アリコマンドにも敵うわけがなく、いつも軽くあしらわれてしまう。噺家ならではの軽妙な大阪弁と、自己の存在を強烈にアピールするバイタリティで、がんがんじいは『仮面ライダー(新)』後半エピソードの名物キャラクターとなり、子どもたちから親しまれ、愛された。ここでは、がんがんじいとの再会を果たした塩鯛に単独インタビューを行い、『仮面ライダー(新)』にまつわる若き日の思い出の数々をふりかえってもらった。
――まずは塩鯛師匠が『仮面ライダー(新)』にがんがんじい役で出演された経緯から教えていただけますか。
『仮面ライダー(新)』の途中から「大阪弁を話すキャラクターを出そう」ということになり、毎日放送の岡崎巍プロデューサーが「誰かおらんか」と、僕の所属する米朝事務所や、吉本興業、松竹芸能に声をかけ、噺家、漫才師、タレントの若いやつを候補として集めたそうです。米朝事務所からは僕と桂雀々が候補でした。オーディションみたいなものはなく、東映の阿部征司プロデューサーが写真を見て「いちばん太っているから、この人がいいんじゃないの」と、僕に決めてくださったと聞きました。声がかかってから役が決まるまで、ずいぶん急だったのでびっくりしました。
――がんがんじいは第34話「危うしスカイライダー! やって来たぞ風見志郎!!」で初登場しました。初めてがんがんじいを演じられたとき、どんな思いでしたか。
役が決まって、大阪から新幹線で東京へ向かい、西武線に乗って東映東京撮影所へ行きました。そうしたらいきなり「アフレコ」をやってくださいと言われまして、そこで初めて「がんがんじい」の姿を見せてもらったんです。ただセリフをしゃべればええというもんではなく、フィルムに映るがんがんじいの芝居に合わさないといけないし、「登場するとき、何かないですか」とか、自分でセリフを考えることもあったりして、困りましたよ。まだ噺家になって2、3年の若手でしたからね。「ガーンガーンガンガラガンガン……♪」なんて、軍艦マーチをもじった「がんがんマーチ」を考えたりしました。共演者のみなさんも隣にいてはって、迷惑をかけたらあかんと思っていたら、だんだん手が震えてきてね……。
あれは山田稔監督の回(第36話「急げ一文字隼人!樹にされる人々を救え!!」)のときやったかな、部屋の外で僕のマネージャーが「見てて胃が痛くなってきた」って言うてたら、山田監督が「中の都丸さん本人が、いちばん胃が痛いと思いますよ」なんて言わはったんです(笑)。がんがんじいの中に入っていたのは、大野剣友会の河原崎洋夫さん。とてもコミカルな、いいお芝居をされていました。僕のほうは初めてのアフレコ体験でしたから、もう大変でした。アフレコ現場で、毎回「すごいな~」と思っていたのは、ネオショッカー怪人の声を演じられている声優の方々です。スカイライダーに倒されて「やられた~!!」と叫ぶところなんて最高でしたね。隣で聞いていて、いつも感心していました。
――登場してしばらく、がんがんじいはその正体を「秘密」にしていましたが、あれはなぜですか?
もともと僕は声だけの出演だったらしいんです。初登場の第34話からしばらくオープニングで「謎の人?」としか出ていなかったでしょ。あれって、がんがんじいが急遽決まった役なので「桂都丸」のテロップが間に合わず、誰でもいけるようにしてたみたいなんですね。でも「謎の人はあんまりでっしゃろ」と、事務所の社長が電話をしてくれた。そうしたら「じゃあ罪滅ぼしに、名前を出すだけじゃなくて、顔出しで出演もしていただきます」なんて言われてね。今度は事務所が「えっ、そんなことまでしてもらえるんですか」と喜んでました(笑)。
そんなことがあって、クチユウレイの回(第41話「怪談シリーズ 幽霊ビルの秘密」)から僕もたびたびがんがんじいの格好をして、出演するようになりました。このときからテロップも「がんがんじい/実は…矢田勘次・桂都丸」と一枚看板で出て、嬉しかったですよ。それまではだいたい月に2回ほど撮影所へ行って、声をまとめて録っていましたけど、矢田勘次の出番があるときはそれとは別にスケジュールを組んでもらって、ロケに行くことがありました。
――実際にがんがんじいのスーツを着たときのお気持ちはいかがでしたか。
全体はウレタン製で動きやすいように作られていましたけど、足には本物のキャッチャー用レガースとか使っていて、すべてのパーツを着けるとけっこう重たかったですね。第41話ではお化けに仮面を外されてノビてしまうとか、ゾンビーダの回(第42話「怪談シリーズ ゾンビー!お化けが生きかえる」)では墓地に座り込んでスーツを修理するとか、ドロニャンゴーの回(第44話「怪談シリーズ 呪いの化け猫 子供の血が欲しい!」)ではオニギリを食べようとしたら怪人に邪魔されるとか、たぶん台本にはなかったのかもしれないんですけど、矢田勘次の出番をいろいろと作ってくださいました。出たばかりのころは必死に正体を隠してたはずなのに、終わりのほうになると喫茶店の女の子(ナオコ、アキ)と素顔でしゃべってたりして、気にしなくなってましたね(笑)。
●がんがんじいと再会することができて本当に嬉しい
――スカイライダー/筑波洋役・村上弘明さんをはじめとする、共演者の方々との思い出を聞かせてください。
一人だけの出番が多く、レギュラーのみなさんとの絡みは多くなかったんです。アフレコルームだとナオコ役の鈴木美江さん、アキ役の江口燁子さん、谷源次郎役の塚本信夫さんたちとご一緒することがあり、ずいぶん仲良くしていただきました。村上さんは主役ですからとにかく忙しくて、現場では数えるほどしかお会いしていませんでした。村上さんといえば『仮面ライダー(新)』が終わって数年後、『必殺仕事人V』(1985年)に出演(花屋の政)されていたでしょう。うちの師匠・桂ざこばが「桂朝丸」という名前だったころ『必殺仕事人V風雲竜虎編』(1987年)に「絵馬坊主の蝶丸」役でレギュラー入りしまして、村上さんに会ったとき「がんがんじいって覚えてはりますか? 私、がんがんじいの師匠ですねん」なんてお話をしていたそうです(笑)。
『仮面ライダー(新)』放送中、うちの師匠と兄弟子の桂枝雀師匠が上野の鈴本演芸場で「枝雀・朝丸 兄弟落語会」を開催し、僕も前座で出させていただくことになりました。東京の落語会に出るのは初めてで、その話をアフレコルームで塚本さんや魔神提督の中庸助さんにしましたら、なんとお2人が演芸場へ来てくださったんです。あのときは、ほんま嬉しかったですね……。中さんってテレビだと物凄いメイクだし、怖い声でしゃべりますけど、普段はめちゃくちゃええ人でした。塚本さんも面倒見がよくて優しい方でしたね。
――がんがんじいとしてテレビに出られたことで、周囲からの反響はあったでしょうか。
僕は『仮面ライダー(新)』と同じ時期、京都で枝雀師匠とラジオ番組に出演しておりました。局からご自宅まで車で送り迎えもしていて、家に着くのがお昼ごろだったんです。ちょうど、枝雀師匠の長男(現在は落語家『桂りょうば』として活動中)が小学校から帰ってくる時間と重なるんですけど、いつも玄関に彼と友だちが5、6人待っていました。「がんがんじいがうちに来ている」ってみんなに言ってたそうです。噺家仲間からも「わし、がんがんじいと友だちやと言うてしもたんで、いっぺん家に遊びに来てくれへんか」とよく頼まれました(笑)。
僕の息子は『仮面ライダー(新)』の放送後に生まれたので、特にがんがんじいのことを話していなかったのですが、ある年の夏休み、嫁はんの実家へ遊びに行ったとき、そこでたまたま『仮面ライダー(新)』の再放送をやっていて気づかれました。別に隠してたわけではないので「家にビデオがあるから観たらええがな」と言って、お袋がビデオデッキを購入してまで録画してくれた当時のビデオを、何人かの友だちと一緒に観ていましたね(笑)。
――とても個性豊かなネオショッカー怪人が登場しましたが、塩鯛師匠が今でも覚えている怪人はいますか?
たぶん写真を見れば、自分が関わった回の怪人はぜんぶ思い出せますよ。中でもよく覚えている怪人はアブンガー(第47話「スカイライダー最大の弱点! 0.5秒の死角をつけ」)。アブンガーは前回、前々回から姿を見せていて、スカイライダーを絶対に倒す作戦を立てていた強敵でしたからね。あとは、せっかくのオニギリをダメにしてしまったドロニャンゴーなんて、思い出深いですね(笑)。怪人といえば、あの独特のネーミングが楽しかったです。枝雀師匠から「都丸にいちゃん、今度はどんな怪人が出てくるの?」ってよく尋ねられたので、「タコギャングです」とか「アブンガーです」と答えたら「タ……、タコギャング!?」「ア……、アブンガー!?(笑)」って、名前だけで爆笑してました(笑)。
――がんがんじいのファンの方から、今でも声をかけられたりすることはありますか?
たまに落語会へ来てくださったお客さんで、色紙に「がんがんじい」と書いてもらえますか、という方がいらっしゃいますね。がんがんじいの小さなフィギュアをいただいたこともあって、今でもがんがんじいのことを覚えているファンの方には感謝しております。でもスカイライダーならまだしも、がんがんじいを今ご存じの方って、かなり深い仮面ライダーファンなんじゃないですか(笑)。
――『THE仮面ライダー展』大阪会場で、がんがんじいやスカイライダーの立像と対面されたときのお気持ちと、師匠が『仮面ライダー(新)』に出演されていた時代をふりかえって、ご感想をお願いします。
今日こうして、がんがんじいと再会することができて本当に嬉しいです。なにしろ『仮面ライダー(新)』は僕のドラマデビュー作品ですからね。スカイライダーも、歴代仮面ライダーでいちばんスマートだし、カッコいいと思っています。聞くところによるとがんがんじいもスカイライダーも、当時の仮面や衣装を忠実に再現されたそうですね。とてもよく作られていて、すごいという言葉しか出てこないです。
会場を巡りまして、仮面ライダーが時代の流れに合わせて何度も進歩・発展しながら長く続いていたことを、改めて感じました。『仮面ライダー(新)』のネオショッカーは地道な悪さをしていることが多く、「そんなことやってて世界征服できるんかいな」と、出演しながら少し心配していましたけど(笑)、子どもたちの身近な場所に怪人が出てきて、そこに仮面ライダーが駆けつけるというシンプルなヒーロー像が、あの時代には求められていたんだと思います。
(C)石森プロ・東映