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生放送のハプニングも“ドキュメンタリー”に 『笑っていいとも!』誕生40年・レジェンドD座談会<3>

2022年10月05日12時00分 / 提供:マイナビニュース

●テレビの原点が、そこにあった
今から40年前の1982年10月4日、31年半という長きにわたって日本のお昼に君臨し続けたフジテレビの公開バラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』がスタートした。タモリの司会で、新宿・スタジオアルタから平日正午より毎日生放送。「~してくれるかな?」のコールがあれば、誰もが「いいともー!」と応えられるほど親しまれたが、なぜここまで国民的な番組となったのか。

そこで、番組初期のレジェンドディレクター3人が集結。立ち上げ時から務め、「テレフォンショッキング」に“ブッチャー小林”として出演もしていた小林豊氏。記念すべき初回放送を担当した永峰明氏。85年から90年まで担当し、「3代目いいとも青年隊」も務めた吉田正樹氏が、全5回シリーズで当時のエピソードや現場の熱気を振り返る。

第3回は、生放送ならではのハプニングの話題に。『いいとも』という番組は、思わぬ事態も楽しんで、“ドキュメンタリー”にしていた――。

○■生放送中の客席で発煙筒が焚かれる

――長寿番組の生放送だけにいろいろなハプニングが知られていますが、皆さんが特に印象に残っているのは何でしょうか?

小林:「テレレフォンショッキング」の有吉佐和子さんだなあ。あのコーナーはだいたい15分、長くて20分なんですけど、もうそろそろ終わりというときに「もうこれで終わっちゃうの?」って言うから、タモさんが「じゃあまだやりますか?」ってなって、CM入れてまたやって、結局最後の最後まで有吉佐和子さんがいたという。

吉田:あれ、金曜日でしたよね。だから(明石家)さんまさんが「帰ってよ!」って言いに来たんだけど、それでも帰らない。しかも、有吉佐和子さんには、みんな強く言えなくて。

小林:あと、生放送中の客席で発煙筒を焚かれたっていうのもあったよ。俺の横にあったから取り上げたんだけど、誰に渡せばいいんだ?って(笑)

(一同笑い)

小林:タモさんは仕込みだと思ってたって。

吉田:それでPASSができたんですよね。

永峰:裏のエレベーターから、意外と簡単に上がれたんだよね(笑)
○■セットを入れ替えるところまで見せる番組

――昔の『いいとも』って、お客さんが生放送中に写ルンですとかで写真撮りまくってましたよね。

小林:全然撮ってました。そういう規制をしなかったから、みんなパチパチ撮ってましたよ。

永峰:それも込みで楽しんでいた感じでしたね。

吉田:テレビはドキュメンタリーで、その状態を楽しんだというテレビの原点が、80年代にはあったのではないでしょうか。

小林:当時のテレビって、今より身近だったんですよ。たぶん『ひょうきん』が変えたと思うんだけど、「ひょうきんディレクターズ」とか「ブッチャー小林」みたいに裏でやってるスタッフが表に出てきて、一気に近くなって、お客さんからするとテレビはリビングに置いてある機械なんだけど、隣近所の人が出てるみたいな感覚があったんじゃないかな。『笑っていいとも!』っていうのは、そういうのを全部出しちゃうから、その流れが番組をどんどんのし上げていった。セットを入れ替えるところまで見せちゃう番組だから、まさに吉田が言った「1時間のドキュメントバラエティ」ということですよね。

――それも、「タモリさん」「テレフォンショッキング」とともに、どの曜日にも共通してあった意識なんですね。

永峰:そうですね。だからお客さんから入ってくるものは、とりあえず受け入れてどんどんやっていくという感じだったと思います。

小林:我々のような裏側のやつがハプニングを起こそうとすると、絶対失敗するんですよ。「テレフォンショッキング」で入り時間にタレントが来てなくて、オープニングの次にコーナーがあるんだけど、どうしようかという話をタモさんがするんです。そこで、一度組んだテレフォンのセットをチェンジするんですよ。それをやった1回目はすごい迫力があったんです。スタッフの悲壮感というか、「ただのオヤジがこんなとこ出ちゃっていいの?」みたいな。でも、その2回目があると慣れちゃって、みんなニコニコしながら作業して、こりゃダメだって(笑)。そういうふうに予定されたことが変わっていくハプニングをみんなで楽しんでいる番組だった気がしますね。

●最も『いいとも』らしい『いいとも』だった時代

――そのドキュメンタリー性のあるバラエティの集大成が、後に『27時間テレビ』となる『一億人のテレビ夢列島』だったという感じでしょうか。

小林:『ひょうきん(オレたちひょうきん族)』『いいとも』のコンセプトで、24時間をやるという企画ですよね。

吉田:それが87年なので、82年のスタートから5年間の“アーリーいいとも”が、最も『いいとも』らしい『いいとも』だったと思います。

永峰:ちょうど僕は87年までやってたんですよ。『ひょうきん』から佐藤(義和D)・山縣(慎司D)が抜けて、三宅(恵介D)・荻野(繁D)・俺の3人でやることになったので、頭の5年間で『いいとも』を抜けることになりました。

小林:俺も5年間でした。欽ちゃんが半年休みたいと言って、『欽ドン』のところに『夜はタマたマ男だけ!!』が始まって、『所さんのただものではない!』につながって、小堺(一機)の『いただきます』もやることになったんで、もう『いいとも』はできないって話になって。

吉田:その後27年やった人たちに申し訳ないんだけど、このおふたりがいた5年間が未完成だけど最高のドキドキする『いいとも』だったような気がしますね。
○■緊急ニュースに生バラエティがどう対応するか

吉田:ハプニングとはちょっと違いますが、御巣鷹山の日航機事故のときのこと、小林さん覚えてますか? 火曜日の11時半のニュースで生存者がいたっていう第一報が入ったんですけど、あの日はいつも通りオープニングをやったんですよ。でも、スタッフルームで横澤(彪プロデューサー)さんが電話でエラいケンカしてるから、何だろうと思ったら、「(報道特番を)カットインさせろ」と言われてるんです。でも、横澤さんとしては、やってもいいけど、その後に『笑っていいとも!』なんてできないから、特番に行くならもう全部引き取ってくれっていう闘いをしてたんですよね。それで、テレフォンのセットまで作ったんですけど、タモさんが「報道センターの露木(茂)さーん」って呼んで、結局そのまま特番になったんです。お客さんに謝って、帰した覚えがありますね。小林さんの担当日ですよ。

小林:覚えてないなあ。あの頃は、僕がやってた『夜はタマたマ男だけ!!』が月曜9時からだったんだけど、編成から「JALが墜落したみたいで、番組飛ばしていいですか?」って言われて、放送が飛んだのは覚えてるけどね。

吉田:ほかにも、岡田有希子さんとか、たこ八郎さんとか、有名人の方が急死されたというニュース速報が本番直前に入って、「これ、タモさんに言っといたほうがいいのかな…」って迷うときがありましたよね。

小林:たこちゃんねぇ…(※)。いいニュースだったらいいんですけど、悪いニュースだとタモさんの耳に入っちゃうと、生放送に影響しちゃうこともあるじゃないですか。だから、入れ方がすごく難しかったですよね。

(※)…当時、『笑っていいとも!』にレギュラー出演していた。

吉田:テレビの前の人は知ってるわけだから、タモリさんが知らないで変なことを言っちゃったら失礼ですからね。もちろんタモリさんの仕切りはいつも完璧でしたが。

次回予告…タモリの柔軟性&適応能力によって長寿番組に

●小林豊
1951年生まれ、静岡県出身。専修大学卒業後、74年に制作会社・フジポニーに入社。80年に制作部門を復活させるフジテレビジョンに転籍。『欽ドン!』シリーズや『笑ってる場合ですよ!』『笑っていいとも!』『ライオンのいただきます』『所さんのただものではない!』などを担当し、92年営業局に異動。営業局長、スポーツ局長、取締役を経て、09年から19年までテレビ静岡社長を務めた。21年に旭日小綬章を受賞。

●永峰明
1954年生まれ、東京都出身。制作会社・フジポニーにアルバイトから入り、80年に制作部門を復活させたフジテレビジョンに転籍。『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』『冗談画報』などを担当し、89年に退社。フリーの演出家として活動し、東京NSCの講師、『キングオブコント』の審査員も務める。13年からワタナベコメディスクールの講師を務め、同事務所のライブの監修を行い、芸人育成を担当している。

●吉田正樹
1959年生まれ、兵庫県出身。東京大学卒業後、83年にフジテレビジョン入社。『笑っていいとも!』『夢で逢えたら』『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『笑う犬の生活』『ネプリーグ』『トリビアの泉』などを制作し、編成制作局バラエティ制作センター部長、デジタルコンテンツ局デジタル企画室部長も兼務。09年にフジテレビを退職、吉田正樹事務所を設立し、ワタナベエンターテインメント会長に就任(現職)。

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