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オーディション終わらずそのまま生放送突入! 『笑っていいとも!』誕生40年・レジェンドD座談会<2>

2022年10月04日12時00分 / 提供:マイナビニュース

●曜日によって全然違う番組だった
今から40年前の1982年10月4日、31年半という長きにわたって日本のお昼に君臨し続けたフジテレビの公開バラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』がスタートした。タモリの司会で、新宿・スタジオアルタから平日正午より毎日生放送。「~してくれるかな?」のコールがあれば、誰もが「いいともー!」と応えられるほど親しまれたが、なぜここまで国民的な番組となったのか。

そこで、番組初期のレジェンドディレクター3人が集結。立ち上げ時から務め、「テレフォンショッキング」に“ブッチャー小林”として出演もしていた小林豊氏。記念すべき初回放送を担当した永峰明氏。85年から90年まで担当し、「3代目いいとも青年隊」も務めた吉田正樹氏が、全5回シリーズで当時のエピソードや現場の熱気を振り返る。

第2回は、各曜日を担当するディレクターたちが、いかにして個性を発揮できたのか。そして、フジテレビの名番組のイズムと受け継がれた伝統とは――。

○■初回のオープニング、タモリが出遅れて登場

――永峰さんは、記念すべき第1回放送の担当ディレクターですよね。

永峰:横澤(彪プロデューサー)さんとやってた『THE MANZAI』で、音楽とかスタジオセットとかのパッケージがうまくハマったんで、『いいとも』の音楽とかそういう部分をやれって言われたんです。それで、伊藤銀次さんに「ウキウキウォッチング」を頼んだり、テレフォンのテーマとかを鷺巣(詩郎)さんに頼んで、そうやってパッケージを作っていきましたね。

――当時でも、司会者が歌いながら登場する番組はあまりなかったのですか?

小林:いや、なかったね。それも新しかったのかもしれない。

永峰:タモさんは早稲田のモダンジャズ研究会で、『今夜は最高!』(日本テレビ)もやって音楽に詳しかったから、僕も好きなのでそういう話で結構盛り上がってたんですよ。でも、第1回で忘れもしない、頭でタモさん、出るタイミングをトチった(間違えた)んだよね。「♪ジャジャンジャンジャンジャン!」でパッと出てこなくて、バタバタって登場したんですよ。セットの後ろで誰かと話してたんだろうな(笑)

――あの「ウキウキウォッチング」を最初に聞いたときは、どんな印象でしたか?

永峰:本当にうまくハマる曲だなと思いました。この人だったらこういう曲を作ってくれるだろうなという感じで頼んだので、伊藤銀次さんには「頭はこういう画で、こういう感じで入りたいんで」みたいな話をして、あれができ上がったんです。
○■「明日からお前らが青年隊やれ」

――吉田さんは、その曲に乗せて踊る「いいとも青年隊」を経験されています。

吉田:3代目です(笑)。小林さんの担当日から。それが777回だったんで、「777」がそろったところをバーンと紙を打ち破って出てきて歌えって、また変な演出を考えるんですよ、小林ディレクターが(笑)。横澤さんも「明日からお前らやれ」って急に言ってくるもんだから、急いで土井(甫)先生に習って。「ボックス踏んで」って言われても「ボックスですか!?」なんてところからやってましたけど、今でも踊れますよ(笑)

小林:横澤さんは、乱暴なんだけど寛容だったんですよ。つまり、ディレクターが「これをやりたい」って言い出すと「どうぞお好きなように」って言う。タモさんも「やってみれば?」って言う人だから、「嫌だ」っていうのがない人なんです。だから、放送でやってみて、「ちょっとつまんないから来週変えます」って言うと、横澤さんは「ああ、いいんじゃない」って言ってくれる。

吉田:ディレクターが言うことを聞かないですしね(笑)。ディレクターが5人いたら5色あるので、「タモリさん」と「テレレフォンショッキング」だけが通しであって、曜日によって全然違う番組だったんですよ。

小林:僕はケント・デリカットとか、デーブ・スペクターとか、オスマン・サンコンとか呼んで、「なるほど・だ・ニッポン」ってやってましたね。

永峰:僕は三田寛子とかがいて料理コーナーをやってましたよ。タモさんの家に行くとパーッと作ってくれて本当に美味しいから。

吉田:そうやってタモさんを5通りに引き出して、競い合ってる部分もあったんでしょうね。

小林:それをやらせてくれたのは、やっぱり横澤さんの度量なんだろうなあ。普通のプロデューサーは、どうしても自分の描いた番組に近づけたがるから、「いや、それはこの番組に合わないでしょう」と言われるんです。でも、横澤さんは一切自分の考えにハメようとしなかった。

吉田:そういえば、僕がデスクで留守番してたら、よく分からない外国人から「コバヤシサン、イマスカ?」って変な電話がどんどんかかってくるんですよ。みんな日本でスターになりたいから、とりあえずフジテレビの代表電話にかけて、小林さんにつないでくれっていう(笑)。でも、サンコンさんにしても、デーブにしても、タモさんが「こいつ面白いな」って思ったら、錬金術師のようにどんどん大スターになっちゃうんですよね。

――外国人の皆さんはどうやって集めたんですか?

小林:全部オーディションだから、みんな最初は素人さんです。ケントは貿易商をやってて、サンコンはギニア大使館の顧問みたいなことをやってたのかな。サンコンはすごいインテリで頭がいいんだけど、なにせギニアの人だから時間は守らないし、狩猟民族だから女の子見るとすぐそっち行っちゃうし(笑)

吉田:小林さんのニセモノもよく出ましたよ。「俺、ブッチャーなんだよ。明日『いいとも』見せてやるよ」って聞いた女の子が、デスクに電話してきて「『見せてくれる』って言われたんですけど、どこに行けばいいんですか?」って。本当に言ってたのかもしれないけど(笑)

小林:言ってね―よ!(笑) でも、会社に尋ねてきた人もいましたよ。

吉田:それくらい、あの番組は社会現象だったんですよね。

●『欽ドン』『THE MANZAI』…フジ名番組のノウハウが結集
――『脱力タイムズ』などをやってる(名城)ラリータさんに、『いいとも』には、オーディションの一般参加者をすごく大事にする文化があるという話を聞きました。例えば、そっくりさんコンテストに何百人来ても、全員リハーサルで本番ギリギリまでアルタの舞台に立ってもらうことで、番組のファンになってもらうんだと。

永峰:それは、『笑ってる場合ですよ!』からの伝統だと思いますね。

――「勝ち抜きブス合戦」とかあったんですよね(笑)

永峰:そうそう、今は絶対できないけど(笑)。そういうふうにいろんなコンテストをやってたんで、みんなにアルタにもらうっていうベースを作ったのは、『笑ってる場合ですよ!』ですよね。そこに来てくれる人を大切にして、一緒に番組を作ろうよっていうのは、『いいとも』でできた独特な感覚だと思います。

吉田:実は、『いいとも』にはいろんな流儀が入ってるんですよ。萩本欽一さんをルーツとする素人さんをどうやって面白く見せていくかという技法とか、『THE MANZAI』的なお客さんをイジって笑いを取る手法とか、そういうノウハウが結集された番組でもありましたよね。オーディションの思い出としてあるのは、「激突!食べるマッチ」(※)で、もう処理しきれないくらいの大行列になったときに、及川(俊明ディレクター)さんが、生放送始まってもそのままオーディション続けようって言って、それを番組本編でも放送したんですよ。あれはドキドキしましたね。ディレクターがやると言えばやるという、思い切りの良さと権限委譲があったんですよね。

(※)…大食い企画のコーナー。実況は古舘伊知郎。

小林:ディレクターとしては、やっぱり刺激がほしいんですよ。番組に対してはもちろんですが、自分に対しても。一般のオーディションで「はいダメ、はいダメ、ここで終わり」って言っちゃうと、何か掘り出し物を逃してるかもしれないと思っちゃう。必ずどこかに宝石があるはずだというスケベ心もあったかもしれない(笑)

永峰:『欽ドン』で素人さんの面白さを萩本さんが楽しんでくれるかという目線で粘って見つけるとか、そういうところのルーツなんでしょうね。
○■ADが前説を行う伝統

――「テレフォンショッキング」のタモリさんと客席の「そうですね!」のレスポンスは、片岡飛鳥さん(『めちゃ×イケてるッ!』総監督)が始められたんですよね。

吉田:そうです。ADだった飛鳥が前説でやったんですけど、ADが前説をやるというのは『欽ドン』からですかね。今はどの番組でも芸人さんが前説をやってるけど、萩本さんの考えで当たり前のようにADがやってたんですよ。

小林:僕らの言葉で「お客さんを温める」って言うんですけど、お客さんも「『欽ドン』見られて楽しみだな」と思いながら、やっぱり緊張しているので、それを和らげるためにやるんです。テレ朝(『欽ちゃんのどこまでやるの!』)だと、当時まだそこまで売れてなかった小堺(一機)とか関根(勤)とかがやってましたけど、『夜ヒット(夜のヒットスタジオ)』もADがやってたから、フジの伝統かもしれないですね。三宅恵介っていうのが、ものすごく前説が上手かったんですよ。

吉田:三宅さんはね、最初は高田文夫先生が台本書いてたんです(笑)

永峰:そうそう、頼んでたんです。「あちらから、1カメ、2カメ、3カメ、オカメ」って、「べっぴんさん、べっぴんさん、1人飛ばしてべっぴんさん」みたいな持ちネタがあって(笑)

――前説の反対で、「後説」も『いいとも』の名物でしたよね。『増刊号』でよくOAしていました。

小林:あれは、最初からあったと思う。生放送が終わったときに、タモさんがダラダラとしゃべりだしたんだよね。

永峰:ただ、後ろに『いただきます』(※)があったときはできなかったんです。それがなくなって、また自由にできるようになったんですよね。

(※)…84年10月から90年12月まで、直後に小堺一機司会の『ライオンのいただきます』が、引き続きスタジオアルタから生放送されていた。

次回予告…生放送のハプニングも“ドキュメンタリー”に

●小林豊
1951年生まれ、静岡県出身。専修大学卒業後、74年に制作会社・フジポニーに入社。80年に制作部門を復活させるフジテレビジョンに転籍。『欽ドン!』シリーズや『笑ってる場合ですよ!』『笑っていいとも!』『ライオンのいただきます』『所さんのただものではない!』などを担当し、92年営業局に異動。営業局長、スポーツ局長、取締役を経て、09年から19年までテレビ静岡社長を務めた。21年に旭日小綬章を受賞。

●永峰明
1954年生まれ、東京都出身。制作会社・フジポニーにアルバイトから入り、80年に制作部門を復活させたフジテレビジョンに転籍。『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』『冗談画報』などを担当し、89年に退社。フリーの演出家として活動し、東京NSCの講師、『キングオブコント』の審査員も務める。13年からワタナベコメディスクールの講師を務め、同事務所のライブの監修を行い、芸人育成を担当している。

●吉田正樹
1959年生まれ、兵庫県出身。東京大学卒業後、83年にフジテレビジョン入社。『笑っていいとも!』『夢で逢えたら』『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『笑う犬の生活』『ネプリーグ』『トリビアの泉』などを制作し、編成制作局バラエティ制作センター部長、デジタルコンテンツ局デジタル企画室部長も兼務。09年にフジテレビを退職、吉田正樹事務所を設立し、ワタナベエンターテインメント会長に就任(現職)。

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